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岡井崇氏(昭和大学医学部産婦人科学教室主任教授)インタビュー

『ノーフォールト』(早川書房)

文・写真/河合 蘭

患者から慕われ、育児真っ最中の女性医師・柊奈智は、過労をおして緊急帝王切開に挑戦したが母親は死亡した――『ノーフォールト』は、医療訴訟のストレスに追いつめられていく一医師の姿を通じ、現代の産科医の切実な想いが描かれた医療ノベルです。著者の岡井崇氏にお話をうかがいました。


岡井

■新人医師を誘う説明会でこみあげてきた悔しさ

河合『ノーフォールト』は、食事中も本を閉じられないくらい夢中で読みました。岡井先生が産科医不足を感じ始めたのはいつごろだったのでしょうか。

岡井平成に入った頃から、この大学でも産婦人科教室の入局者が減り始めていました。研修医制度が変わって産科医不足が始まったといわれますが、すでに不足していたところに制度の変更があってひきがねを引いた形ですね。

河合あとがきで、岡井先生は新人医師を勧誘する医局説明会で話されているとき号泣されたと読んでびっくりしました。

岡井自分たちとしては、これは大事な仕事であり、やらなければ社会が困ると思ってやってきました。それなのに、社会から理解されていない気がしましてね。平成15年当時、私は厚生労働省の「小児科・産科の若手医師の確保と育成に関する研究」の班員として過酷な労働、現代の学生気質、訴訟の問題などを報告しました。でも、何も社会的なことは起きなかったので、産婦人科医が主人公の小説を書くことを考え始めました。

河合よく筆をとられましたね。

岡井ずいぶん長い間、家で『書きたいなあ』とぶつぶつ言っていたら、妻に『そんなに言うなら書いたらいいじゃない』と言われて、それでは書こうかな、と。

■「訴えられるかどうか」がとても気になる現代の医師

河合主人公の柊先生も、医局の他の先生たちもとてもいい先生たちでした。

岡井主人公の医師が、きらわれるような医師ではしょうがないので、魅力的な人にしてあります。でも実際にも、医師になろうという人は、あまり悪人はいないんですよ。悪いのは病気なんですよ。それなのに今はとかく患者さんと医師が対立するでしょう。

河合奈智は、若い先生にはめずらしく、患者さんによく「大丈夫ですよ」と言いますね。今の先生たちは、この言葉を患者さんにかけにくくなっています。『ノーフォールト』には、医師と患者の間にかつてあった信頼関係を取り戻したいという岡井先生の願いを感じました。

岡井僕が医師になった35年くらい前はパターナリズムそのものでしたが、患者さんからは、信頼しています、頼りにしています、という気持ちが自然に伝わってきました。その気持ちがそのまま素直に自分の中に入ってきて、何も余計なこと考えないで『この人のためにどうしたらいいのかな』と必死に考えました。

ところが今は、『こんなことを言ってしまったら、あとで訴えられないか』ということを常に考える時代です。患者さんも自分で考えて意見を言う。それは、正しい方向に来てはいるのでしょう。でも一方で、皆さん、自分の奥さんがお産で死ぬなんて絶対に思っていないのは事実だと思います。だから、結果が良くなかったら『一回弁護士さんに相談してみようか』ということになって、関係の人に話を聞いているとだんだん訴訟になっていく・・・。日本は、本当はそういう社会ではないのですが、これはアメリカの影響です。

■「反省点」を「過失」とするシステムでは、事故の再発を防げない

河合岡井先生は、医療訴訟の問題を解決する方法として無過失(ノーフォールト)補償制度(※1)をはじめいくつもの方法を本で紹介していらっしゃいますが、これは主にヨーロッパの国々でおこなわれていることですか。

岡井そうです。日本の精神風土はヨーロッパに似ています。しかし、システムはアメリカをまねてます。

無過失補償制度はひとつの柱で、他にも大切なことがいろいろあります。ひとつは個人的な賠償責任を離れて、医療としてどうであったかをきちんと検証すること、つまり死因を究明する機関を持つということです。

次に、職業人として責任をとるシステムです。その人に至らないことがあって患者さんが亡くなったのであれば、教育的なペナルティを与えて勉強しなおしてもらう。さらに、死因究明の結果をきちんと集計し、施設に通知を出す。そこまで行って初めて医療が良くなる。

ノーフォールト

ノーフォールト』 
岡井崇著(早川書房)

訴訟になると、争いになってしまいます。弁護士との喧嘩になってしまうのです。さすがに患者さんとは、なかなかけんかになりません。でも弁護士さんは、勉強はしていても現場のことは知らない状態でいろいろ言ってくるわけですから、こちらも怒りが出てきてまともな反省の言葉なんか出ないですよ。

昔は、薬の量の間違いなど明らかなミスを病院が隠そうとしました。でも今は、そういう隠蔽はできませんから、病院がすぐに謝罪し、こういうケースは訴訟になりません。裁判になるのは、グレーな症例ばかりなのです。それは、他のもつと経験豊かな医師から見たら、その医師には至らないところがあるし、ほんのちょっとのことで助かった症例かもしれません。でも、病院が365時間24時間最善の医療を提供することは不可能です。でも裁判では「あの判断がよくなかったかもしれない」などと言ったら、それは「過失だった」ということになってしまうでしょう。だから言えないですね。そうするとそのやり方が続く。これでは、再発防止効果が何もない。

現在、事故調査委員会の準備が進んでいますが、これはまだ道が遠そうです。刑事訴追をするために報告書が使えるようにするという案が出ているのですが、それではだめです。私たちは、かなり最善に近い医療が行われていても、なお『まだ上があるんだ』という姿勢で反省していかなければならないのに、それが刑事訴追の材料になるとしたら『私はこんないい医療をやりました』と言うだけになります。それでは、医療は一歩も上に進まないでしょう。

■助産師がお産をとっていたころは当直が楽だった

河合産科医療をたてなおす方法として、岡井先生が他に考えていらっしゃることは?

岡井当直の次の日は休みにしないといけないですね。労務管理責任者に、そうしないとペナルティを与えるといった勧告を出すことが必要です。

河合医師の当直空け勤務は、いつごろから常態化しているのでしょうか。

岡井それはわかりませんが、昔の当直勤務は楽でした。寝ている時間が結構あったのですが、今は忙しくて寝ていられません。 

河合昔の病院では助産師がお産をとっていたからですか。

岡井ひとつには、それが大きいです。だから、もっと助産師さんと協力してやっていきたいと思うんですよね。助産師さんが、法的に会陰切開や縫合をできるようになったらいいと思います。もっとも、昔は分娩監視装置をつけて胎児の心拍数が落ちたら帝王切開をするというようなことをしませんでした。助産師さんは、もっと勉強しなきゃだめですよ。勉強している人もいるけれど、もっとたくさんの人が心拍数の波形もちゃんと読めるし、ちゃんと判断して医師が呼べるとなったら、医師も楽になります。

■地方に産業を育てず道路ばかり作ってきたばらまき政策

河合集約化についてはいかがですか。

岡井今までのような配置では、医師はとても効率の悪い労働をさせられます。医者の数を増やせばよいのですが、それにはお金かかります。妊婦さんは、お金を出さないのであれば、やはり、ちょっとは我慢してほしいということになります。

河合開業医の先生はおひとりで400〜500人診ている先生もいますが、集約後の病院では医師1人当たりの分娩件数がその半分くらいのようです。これについてはどのようにお考えですか。

岡井私たちの世代は、私生活も省みず働きました。でも将来のことを考えたら、産科医がそういう職業であっては困るのです。長時間働くことをいとわない世代は年齢が高いですから、やがていなくなります。私生活を犠牲にする働き方は、私は、若い世代に見せたくありません。ますます産科が敬遠されてしまうからです。

河合それが現実ですか。ただ、東京から10分で行けたところを30分は我慢して、というくらいですみますが、地方は本当に大変です。

岡井それは、全国の先生たちからもよく聞いています。しかし、この状況でも国は医学部の定員をわずかしか増やしませんから、これは国策としか言いようがありません。

もっとも、これは医療の問題だけではありません。地方は、医者がいないだけではなくて、若い人がいないですよ。地方にお金をばらまき、いまだに道路を作っている国政がいけないのです。そうではなく産業を育てないとだめです。

そうすれば、意欲的な病院もできて、医者はそういうところに行くんですよ。医師だけ、お金をたくさん出すから行けと言っても行きませんよ。行っても、すぐ帰ってくる。付け焼き刃です。医師という人種には、やりがいが大事なんです。一生懸命技術を身につけて、それを人間的なつながりの中で生かせれば喜びを感じます。

河合どうもありがとうございました。かなうことでしたら、『ノーフォールト パート2』を読める日が来たらうれしいです。


※1 無過失(ノーフォールト)補償制度
医療を受けた結果が良くなかった場合、医療側の過失の有無に関係なく補償金が支払われる制度。患者にとっては裁判を起こすことなく経済的な安心が得られ、医療側にとっては医療訴訟が減少する。日本では、医療訴訟につながることが多い脳性麻痺について実施の方向で検討されている最中。

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ノーフォールト  岡井崇著(早川書房)

インタビュー 2007年12月7日
紙REBORN24号より