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にっぽんの助産婦の仕事

『にっぽんの助産婦の仕事』no.3


栗原トシ子さん 大分県別府市
「時代の変遷とともに変わったこと、
変わらないこと」


 「毎朝、6時30分に近所の温泉に行く」とおっしゃる栗原さんは、83歳とは思えない ほど若々しく、張りのある声の持ち主だ。「床柱で帯祝いから、お七夜、誕生祝いまでするような家にお産やお祝いに呼ばれるでしょ。『何かせんと帰らせん』と言われるもんで、詩吟や謡曲を習ったんですよ」。地域の公民館の設立運営の中心となるなど、多忙な助産婦活動のかたわら、「よそへ出ても恥をかかないように」と、社会参加も精力的に行ってきた。先代から続く出産台帳などの資料を見せてもらいながら、栗原 さんの64年に及ぶ助産婦としての足跡を伺った。

三好菜穂子

●『白木助産学』を丸暗記して、試験に臨む


 先代の栗原ワリさんは久留米の士族出身という。まず驚いたのは、戦前の開業届けに「士族」としっかり明記されていることだった。2代めの栗原トシ子さんの方は「 平民」である。
 「あのころは差別が激しかったですね。階級だけでなく、都会と田舎の差、それから男女の差はものすごかった。女は裁縫さえできればいいという、そんな時代でした」 。尋常小学校時代、「学年で3番と落ちたことがない」優等生も、卒業後はほとんどの女子がそうであったように裁縫学校に。しかし、栗原さんの優秀さと真面目さに目をかけていた校長先生から「将来、産婆か看護婦にしてやるから、福岡で産科の開業 医をしている義妹のところに奉公してくれんやろか?」と請われ、『女性でも、手に職をつけなければ…』と思っていた栗原さんは、そこで女中兼子守り兼の見習い看護婦として修行を始めた。17歳のときだった。そして、産婆試験と看護婦試験に合格。「当時は各県で年2回、春と秋に試験があって、『白木助産学』2冊を必死で丸暗記しましたわ。でも、当時はみんな産婆の手で生まれてたから、医者の家におっても実地はできなかったんですよ」。

●「習うより慣れろ」の修行時代


 そこで、昭和10年10月、別府市内で分娩取り扱い数が1、2という栗原ワリさんと2年間の誓約書を交わし、住み込みで実地研修を始めた。年間450〜500人という繁盛ぶりで、栗原さんも先輩のお弟子さんと共に昼夜を問わず、分娩に沐浴の訪問にと駆け回った。自転車に乗るようになり、服装も和服にエプロンから、洋服へと代わって いった。
 「今みたいに電話やタクシーがあるわけじゃないから、家の者がちょうちんぶら下げて迎えに来たら、それについてすぐに出かけなきゃならんでしょ。だから、助産婦が3組くらいずつ、いつでも出られるように準備しとったわけ。新米は先生について 、2番目はある程度慣れた人で、3番目は留守番といったうようにね」。妊婦検診などなかった時代だ。産婦が産気づいて、初めて助産婦は呼ばれるから、着いたらすぐに お産の準備を始めなければならない。産婦の腰をさすり、いよいよ生まれるというときには、仰臥位にさせ産婦の腰を上げておむつで厚みをつけた腰枕を腰にあてがい、 嚢盤を置く。そして、皮製の安産器を産婦の爪先にをはかせて、いきむ ときには吊り手を産婦自身に引っ張らせる。 「いちいち会陰保護がどうこういうより、『習うより慣れなさい』っていうほど、そ りゃもうひっきりなしにお産がありましたわ」。昔の妊婦はよく働いたから、お産は 案外とラクだっとようだが、妊婦検診も産前教育もなかったから、妊娠中毒症の予防 などは当然できない。「弛緩さえ起こさなければいい、脹れればお産が楽じゃ、くらいに言っていた時代でした」。
 あっという間に契約の2年の年季があけ、恩師から県入りの話があった。そこで、 暇問いをかけたところ、「うちの息子と結婚してくれんか?」と、反対に縁談を薦められ、昭和13年に栗原秀次さんと結婚。栗原ワリさんの後継者となった。このことが 、栗原さんの助産婦としてのその後の運命を大きく決めたようだ。

●工夫を重ねて物資不足の時代を乗り切る


 戦時色が強くなり、10人産んだ女性は国から表彰されるという、まさに「産めよ増やせよ」の時代に、栗原さん自身も、昭和14年に長男、16年に長女、19年に次男を出産した。
 「姑や見習いのほかに子守りも雇っていたから、いつもたくさんの人がいて、手の空 いている人が見てくれてましたわ」。しかし、どんなに多忙でも子どもの授業参観は欠かさず出かけたという。
 別府市は直接の戦災は免れたものの、物資の不足は避けられなかった。米、晒、ちり紙などの配給のために「妊婦手帳」が交付されたが、いよいよ晒も無くなると、木 綿の布を洗ってアイロンで熱消毒し、臍包帯として使うなど工夫を重ねて戦時下を乗り切った。
「ありがたいことに、お産を取り上げた家の人たちがお米や餅を届けてくれたんです 。あの時代でも、食べ物に困ったことはまったくなかったですね」。

●いつでも、まわりの人に支えられてきた


 終戦後には、空前のベビーブームが到来する一方で、助産婦に関する法律も改正された。産婆と看護婦免許の保持者は、再教育の講習会だけで済んだが、全国的なものから県市町単位のものまで「終了証が数え切れないほどの講習会が行われた。婦人参政権ができ、初代の日本助産婦会長・横山フク女史が参議院選に出馬。栗原さんも、 別府市内を自転車で応援に回ったり、高齢の産婆をリヤカーに乗せて回りながら、新しい時代の波をひしひしと感じていた。まだ当時は自宅分娩が主流で、住宅難で自分の家がないような人を例外的に預かるくらいだったが、徐々に施設入院分娩を希望する産婦は増えていった。そこで、昭和25年、自宅を修理・改造して助産所を開設。昭和35年には、自宅分娩は「ぴしゃっとなくなり」、完全に施設分娩の時代となった。 昭和38年には、新しい理想にあった3階建ての自宅兼助産所を新築。かなり思い切っ た初期投資だったが、助産所の経営者としての栗原さんは、時流を読み、出すべきものには出費を惜しまない主義だ。そのころから、正常産でも産科医がとるようになり 、別府市内に10施設あった助産所も2施設に減ってしまった。そんな時代の変遷のなかでも、栗原さんは一貫して自然分娩、母乳育児を通してきた。
  「両親がよっぽど丈夫に生んでくれたんでしょうね。床に就いたのは自分の出産のときぐらいで、自分でもよく過労死せんかったと思うくらい。」


『 大分の助産史』に寄せた手記の結びには、栗原さんの詠んだ歌が記されている。

 

母と子の命守りて五十年(いととせ)のいばらの道も夢の間に


栗原トシ子さん
 大正4年4月、大分県直入郡宮砥村(現・竹田市)に、農家の7人兄弟の第5子とし て生まれる。昭和9年に産婆試験に、10年に看護婦試験に合格。別府市の栗原ワリさ んのもとで実地を積み、昭和13年に栗原さんの長男と結婚。昭和25年に「栗原助産所 」を開設。
 3年前に、自転車で転倒し入院したのをきっかけに現役を退くまでに、1万3000人以 上の新生児を取り上げている。平成3年に勲五等瑞宝章を受章。助産婦活動以外にも 、婦人会会長、公民館長などを歴任し、地域活動での実績も大きい。現在も、日本赤 十字奉仕団の別府市委員長などで多忙な日々を送っている。


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