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にっぽんのお産


 北海道、知床、ウトロ   田畑ツル さん

文・写真  きくちさかえ (取材2002.2月)

●北方の漁師の妻


 北海道、知床。冬には遠くロシアから流れてくる流氷が接岸する町、ウトロ。そこに住む92才の田畑ツルさんを訪ねた。
 田畑さんの家は、海岸線に沿った道路の傍らにあった。ときは2月、その日、流氷が対岸した。日中でも氷点下5度くらいの気温で、目前に広がる海は真っ白だ。
「台湾から来たお客さんが『ずいぶん広い畑ですねえ』と言ったという笑い話が残っているんですよ」と、バスの運転手が教えてくれた。沖から流れてくる氷は、波によってどんどん浜へ押され、その上に雪がつもって一晩で氷る。すると白い氷の海原が、沖合い3キロほど続く。氷った流氷の上は、歩けるほどだ。

  明治44年生まれの田畑ツルさんは、漁師の妻だった。きっちりと着物を着こなしている姿は、かくしゃくとしている。今まで、洋服というものを着たことがないといい最後の世代だ。10年ほど前、夫に先立たれ、今は息子夫婦と孫夫婦に囲まれた生活をしている。「青森で生まれました。父親が漁師で。学校出てから、戦前ね、夜行列車に乗って、青森から上京して仕事に行ったことあるの。東京の葛飾の紡績工場。集団で働きに行きました。いくらもらってたかねえ、氷水が2銭のころでしたから。なんぼももらってなかったんでないの。仕送りはしてませんでしたあ。葛飾というところは、たいした田舎でしたよ」

「青森から、家族がカラフトへ渡るというので、私も青森に戻って、家族といっしょにカラフトに渡りました。父親はカラフトで漁師をしていました。マオカという町からしばらく行った村で、結婚しました。夫も漁師です」 ツルさんは、昭和7年から27年までの20年間に、11人の子どもを産んでいる。カラフトで9人の子を出産。終戦後、北海道に引き上げてきてから、さらに2人の子をもうけている。「私はお産のおなかとか腰、病まない(痛くない)の。ほかの人はわかりません。あまりそうした話は、ほかの人と話さないから。産まれるなあと思ったら、おとうさん(夫)に、産婆さん呼んでもらうの。カラフトにはちゃんとした産婆さん(助産婦)がおりました。免許もった人ね。カラフトは当時、日本の領土だったから、みんな日本人」


 今は異国のカラフト。戦前までは日本だったと言われてもピンとこない。けれど、第二次世界大戦が終わるまで、カラフトの住人はみな日本人だった。住民の多くが北海道からの移住。カラフトはもちろん寒さは厳しいかったけれど、当時は食料もあり、安全で豊かだったという。「産婆さんに電話で連絡してもらったこともある。たいていは、生まれてから産婆さんが来たが(笑)。ええ、ひとりで産むんですよ。なあんも恐いことなんかない」


 いつも不思議に思うのだけれど、この時代の女性たちは、みなこのようなことを言う。ひとりで産むことに、なんの躊躇もためらいもない。今の時代、女性たちがそうした発言ができなくなってしまったのは、いったいどうしてなのだろう。


 家は居間が板の間で、座敷は畳みだった。お産は座敷の部屋に布団を敷いて、
立てひざのような姿勢で産んだという。「べつにだ〜れにも教わったわけでない。自分でできるんだね。産婆さんは生まれてから来て、臍の緒を切ってくれて、赤子を湯に入れて。湯はわざわざ湧かしたわけでない、いつもストーブの上で湧いているんだ」


 産婆(助産婦)は、産後1週間ほど通ってきてくれたという。「まわりの人たちも、みんなその人に頼んでいました。当時、いくらでしたか、5円くらいでながったかなあ。町には先生(医師)もいましたよ。おなか切れる(帝王切開できる)先生ね。だども、先生に頼むと倍くらいかかったから、10円くらいね、みんな産婆さん、呼んでました」


 部屋には薪ストーブがあり、その上で常にお湯が湧いていた。古い浴衣でつくった手製のオシメも、その湯を使って洗ったという。「冬でもな〜んも寒いことはない」と、ツルさんは笑うが、すでに私には想像もつかない。氷点下30度にもなる真冬。今とは違い、断熱材の入っていない小屋で、薪ストーブがひとつである。「薪は、お父さんが冬の間に山に行って集めてくるのさ。1年分の薪だから、3月くらいまでかかる」


 
●カラフトでの生活


 カラフトでは雪の中、医者を呼ぶときは、ソリを出したのだそうだ。「ソリをもっていって、それに医者を乗せて運ぶのよ。呼びに行った人が、それをひっぱった。人力よ。産婆は歩いてきましたねえ」


 ツルさんは、あまり母乳が出たほうではなかったと言う。「おっぱいの出ない人は、生の米をうるかして(水にしたして)、擂り鉢で擂って、それをガーゼで漉して、それを炊いて、水で冷やす。それで、とろ〜っとなるんだね。それに砂糖を入れて、飲ましたもんです。冷やす前に砂糖を入れると、透明になってよくないの」


 冷やしてから砂糖を入れると、白いどろっとしたミルクのような液体になるという。当時はミルクの配給がなく、子どもが生まれた人には、砂糖の配給が余分にあったのだとか。それでツルさんは、7人の子を育てている。


 漁師の妻たちは、子育てをしながら夫の手伝いもしていた。ニシン、マス、サケ、スケソウダラ、カニがよく捕れた。水揚げされた魚を陸で捌くのは女の仕事だった。ほかにもツルさんは、山を開墾してつくった畑で夏場には野菜もつくっていた。「野菜はいろいろ捕れましたよ。白菜はだめね。ころっと丸くならない。きゅうりも捕れなかったんで、きゅうりの替わりにトマトの糠漬け。トマトは赤くならないから、青いトマトのこうこ(おしんこ)ね。女の人の中には、子育てが大変だからと畑をやらない人もおったが、私は子どもが腹をすかして欲しがるのがいやだから、畑をやって野菜をつくったの」


 子を産み、育て、漁の手伝いと畑仕事。とにかく働き者である。だから丈夫で
長生き。92才の今も、「医者にかかることはない」のだそうだ。


●カラフトからウトロへ


 戦争中、マオカはロシア軍の爆撃に合うが、食料に困るようなことはなかった。ところが、終戦後、ロシア兵が上陸してきた。「だども、ロシア人はわりかた悪いことはしませんでしたよ」と言う。実は田畑家は、上陸したロシア人の母子に部屋を貸して、共同生活をした経験をもつ。20年に終戦を迎え、カラフトの日本人は順次、引き上げ船で国内に引き上げていったけれど、田畑家は比較的遅く、23年までカラフトの地で生活していた。


 この間、ツルさん家族は辛い体験をしている。次女が17才のとき、学校で転んだ傷からばい菌が入り、破傷風で亡くなった。村には病院がなく、救急車でマオカの病院に運び、入院して手当てを受けたにもかかわらず、かなわなかったという。その次の年には、6才の息子を亡くしている。ツルさんは、そのことについてあまり話したがらなかった。実は、亡くなった子どもたちの年齢もはっきりは覚えてはいなかった。遠いかなたの辛い出来事だった。


 引き上げの2ケ月前、9番目の子どもが誕生。その子を抱いて、一家9人、引き上げ船に乗って、函館へ引き上げてきた。函館には、身寄りのない人たちのための簡易宿泊施設に身を寄せる。多くの人たちが、本州の炭坑へ紹介され北海道を離れていったけれど、夫の「漁師でありたい」とう願いから、道北へ希望をつないだという。オホーツク海に面した斜里まで列車に乗り、海路でついの住処となるウトロへ入った。


 その後、2人の子を出産。当時のウトロには、助産婦はいなかったので、とり上げ婆さんを頼んだという。「とり上げ婆さん、ゴライさんという人。農家のおばあさんでした。そのゴライさんが、村の全部のお産をとっていました。お金を払いましたよ」


 ウトロは、カラフトよりずっと田舎だった。ウトロに電気がついたのは、一番下の子が生まれた昭和27年ころ。それまでは、配給になっていたイワシの油をホタテ貝の殻に入れ、そこに芯をさして灯明(明かり)にしていたという。昭和35年ころに、斜里からの道路が開通し、ようやくバスが通るようになった。それまでは町との往来は主に船。その船も流氷のある冬場にはもちろん不通になる。「今の漁師は楽だでなあ。土日、祝日は休みやけ。昔は、休みなんてながった。冬場は薪を採るので忙しい」


 そんなおばあさんの辛口発言を、同居の息子と孫婿が笑って聞いている。彼らがその現代の漁師。ツルさんの父親の代から数えると4代続く漁師一家である。

「1週間ほど前なあ、だあれかが昔の話さ聞ぎにぐるって、予感がしててさ、来られたらどーしようがと思ってたのさ」 ツルさんは、ふっとそんなことを言う。その「だれか」とは、私のことだったというわけでした。

 

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